※本ページは、羽田七福いなり会が主催する『羽田七福いなりめぐり』の公式ページです。
開催期間・場所・名称等、このページおよび公式ツイッターに記載されている情報が公式のものであり、他ホームページ等に記載されている他団体が企画した同名称または類似名称のイベント等の情報は、当会とは一切関係がございませんのでご注意下さい。
Follow @HND7inari
Tweet #%E7%BE%BD%E7%94%B0%E4%B8%83%E7%A6%8F%E3%81%84%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A
はじめに
羽田七福いなりめぐりとは?
一、東官守稲荷神社(とうかんもりいなりじんじゃ)
二、妙法稲荷神社(みょうほういなりじんじゃ)
三、重幸稲荷神社(じゅうこういなりじんじゃ)
四、高山稲荷神社(たかやまいなりじんじゃ)
五、鴎稲荷神社(かもめいなりじんじゃ)
別格玉川弁財天(たまがわべんざいてん)
六、白魚稲荷神社(しらうおいなりじんじゃ)
七、穴守稲荷神社(あなもりいなりじんじゃ)
羽田七福いなりめぐりとは、毎年正月に行われる催し物です。この期間は各神社にて御朱印を受け付けております。京急空港線 糀谷駅近くの東官守稲荷神社を始めに、ゴールの穴守稲荷神社までの所要時間は約2時間となっております。
鎮座地:大田区萩中1-5-18 【地図】
東官守稲荷神社は、昔 萩中町7番地(旧番地)辺りにあり、敷地も広く東に向き、海に向かって建てられていた。当時この地に住む村人らは半農半漁の生活をしていたので、海における仕事の安全を祈る守護神として、村人達の信仰を集めていた。 大正6年の風水害により社は被害を受けたが、萩中神社再建の際、萩中神社の境内に移された。しかし、また昭和20年4月、戦災の為焼失してしまったが、町民の努力により再建された。
鎮座地:大田区本羽田1-12-9 【地図】
享和元年9月(1801年)大洪水の被害から立直る為、京都伏見大社の分霊を賜り、大松の下に社殿を建立し、鎮座されたものと伝へられている。この松の根元には白蛇が住み、神の使いと云われた事から、蛇稲荷とも呼ばれ信仰を集めていた。大正12年の関東大震災の折、大松も社殿も焼失したが、当地の有志により松の切株の上に八角堂が建立され、妙法稲荷と呼ばれ信仰を集めていた。昭和20年の戦災によって八角堂は焼失したが、昭和31年崇敬者並びに地元有志により現在の社殿が建立された。
鎮座地:大田区本羽田1-7-14 【地図】
昔、この辺り一帯は大野上田と呼ばれていた。度々の洪水に悩まされた村人達は、多摩川のほとり旧六郷土堤の際に、田畑の守護と五穀豊穣を祈って社を建立した。社前の道路は旧六郷土堤であり、現在の社の高さが旧堤防の高さであった。境内には樹令400年、幹まわり3.5メートルの楠の大木があったが、昭和20年4月の大空襲で焼失してしまった。社前の道路が一部膨らんでいる事が、大木のあったことと歴史の古さを物語っている。
鎮座地:大田区本羽田3-12-2 【地図】
この辺りは中村と呼ばれ、社殿は名主 橋爪家(伊勢屋=本羽田3丁目辺り)の前にあったが、昭和4年の六郷土堤改修工事の際、現在地に移転された。移転前の社が飛騨高山より来た大工によって建築された事から、高山稲荷と呼ばれる様になったと云われている。戦前の初午祭には、芝居も催され大層の賑わいをみせた。この辺りの親達は初午の日に社前に小屋を作り、子供をお籠りさせてから寺小屋に入門させたと云う。
鎮座地:大田区羽田6-20-10 【地図】
この社に現存する石の鳥居には弘化2年(西暦1845年)建立と刻まれている所から、御鎮座はそれ以前となる。その昔、漁師たちが祈願すると鴎(かもめ)が飛来し大漁であったと云うことから、鴎を大漁の兆しとして崇め、以後「鴎稲荷」と呼ばれるようになった。大正13年頃 社屋を新築したが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。その後町民により再建され、現在でも初午の夜は篝火を焚き太鼓を打ち鳴らしている。
鎮座地:大田区羽田6-13-8 【地図】
江戸名所図会に“羽田村の南も洲の先にあり、故に羽田弁財天と称せり。本尊は江の島本宮巌屋弁財天と同体にして、弘法大師の作なりといへり。宝永八年(西暦1711年)四月此地に遷し奉る云々”とある。社頭は、江戸新堀 小西九兵衛という酒問屋が全て造ったとされ、境内の一部に常夜灯があり、沖行く舟の目標であったと云う。また、当社にまつわる様々な版画も残されている。現在の羽田空港内(要島・鈴木新田)にあったが、昭和20年9月連合軍の強制立退命令により現在地に遷った。
鎮座地:大田区羽田5-27-8 【地図】
例祭日:5月最終土曜日
武蔵国風土記に“漁士白魚を初めて得しときは、まず此の社に供ふる。故にかく云へり”と社名の起源が記されている。
多摩川の砂利砂採取が行われるようになった頃、この事業に従事する人たちの信仰を受け、社頭は大いに盛んであった。昔、この附近は藁葺き屋根が多く、漁師町特有の建込んだ家並みから、火事が起らないよう祈願する人も多く火伏せの神様としても信仰がある。その為か、この社は先の大戦の戦火を免れた。
鎮座地:大田区羽田5-2-7 【地図】
文化文政の頃、羽田浦(現羽田空港)の災厄消除を願って創建。 明治以降は「関東一流祠」とも称され、日本初の神社参詣電車である京浜電鉄穴守線(現京急空港線)も開通し、鉱泉宿街を中心とした鳥居前町や海水浴場、競馬場等を有する一大観光地であった。 敗戦に伴う連合国軍による飛行場接収の為、ただ一基の大鳥居だけを残し、空港と一衣帯水の現在地へ遷座した。大正時代から続く航空業界との深い神縁から、空港関係者・利用者の信仰も篤い。