豊受姫命(とようけひめのみこと)
ねがいごと かならずかなう 穴守の稲荷とは「稲成る・稲生る」の義であり、「なる」は万物を生成する力を表す強い言霊である。
いなりの神よ いかに尊き
羽田ではやる お穴さまと謡われている。
朝参り 晩には 利益授かる
社伝に云う。文化文政の頃 鈴木新田(現 羽田空港内)開墾の際、沿岸の堤防しばしば激浪のために害を被りたり。或時堤防の腹部に大穴を生じ、これより海水侵入せんとす。
ここに於いて村民等相計り堤上に一祠を勧請し、祀る処稲荷大神を以てす。
これ実に当社の草創なり。爾来神霊の御加護あらたかにして風浪の害なく五穀豊穣す。その穴守を称するは「風浪が作りし穴の害より田畑を守り給う稲荷大神」という心なり。
明治十八年公衆参拝の許を得、翌年十一月に「穴守稲荷神社」の御社号が官許せられてより殊に隆昌し、京浜電鉄による参詣鉄道「穴守線(現 空港線)」の開通、鉱泉発掘や海水浴場・競馬場など聖俗糾いて殷賑を極むる。参拝の大衆日夜多く境内踵を接する如く、またその景趣は東国一と讃えられ崇敬者は国内は固より遠く外地にも及べり。社前には数多の鳥居が奉納され(記録に拠れば四萬六千七百九十七基)、其の鳥居の下に入れば雨にも濡れぬと言わしめた。
然れど昭和二十年八月終戦にのぞみ未曾有の紛擾の中、連合国軍による羽田空港拡張の為従来の鎮座地(現在のB滑走路南端付近)より四十八時間以内の強制退去を命ぜらるる。
而して未だ戦禍の跡も癒えぬ昭和二十二年、地元崇敬者有志による熱意の奉仕により境内地七百坪が寄進され、仮社殿を復興再建。翌年二月、現在地(大田区羽田五丁目2番)に遷座せり。
爾来崇敬者各位の協力により、社殿・神楽殿・社務所等を復興し、令和二年春には目出度くも奥之宮・稲荷山を竣工。漸次昔日の面影を取り戻しつつある次第なり。
今は昔 羽田浦は要島に一翁あり 要島は干拓く島なれば堤にて固め成されり 然ど津波に襲し堤破るる事屡なれば 堤の上に祠を構へ稲荷大神を勧請するに 風浪の害止み之を以て穴守稲荷と称す
或刻 翁漁より帰りて魚篭を覗くに釣せし筈魚は無く只湿砂のみ在り 翌も翌々も大漁なれど同く魚は無く湿砂のみ在るを訝しく思ひし翁 村衆に此を談る 衆人此を狐の仕業とし穴守稲荷の社を囲みて狐捕へけれど 翁此を赦し放てり
此より後 翁漁に出ずる度大漁なり 魚篭には許多の魚と僅なる湿砂あり 嫗此の砂庭に撒くに忽ち千客萬来す 斯くて翁冨を得る
故 翁に肖り御砂以て招福の徳を得むと 穴守の砂求むる者四方八方より訪れり
尚 今日に至る
お砂のまき方
- 商・工・農・漁業・家内安全の招福には玄関入り口に
- 病気平癒の場合は床の下に
- 災・厄・禍除降の場合は其の方向へ
- 新築・増改築には敷地の中心へ
- 其の他特殊な場合には神社にお尋ね下さい
明治27年(西暦1894年)、穴守稲荷神社がまだ鈴木新田(現羽田空港)に鎮座していた頃、地元住民が早魃に備え、良水を求めて井戸を掘ってみたところ、海水よりも濃い塩水が湧出した。これを成分鑑定したところ、諸病に効く鉱泉と認められた。 その後、社前のあちこちに鉱泉宿が立ち並び、京浜電鉄によって日本初の神社参詣電車である穴守線(現・京急空港線)も開通し、羽田穴守はたちまち東京近郊の神社参拝を兼ねた一大保養地として発展し、その繁栄の様は東国一と称えられた。
明治29年(1896)7月には、崇敬者によって 「御神水講」が設立された。趣意書にはこの鉱泉は霊水であり、発見そのものが穴守稲荷の霊験であると述べられている。のちの講社名簿にはその御神水元講をはじめ、関東各地に「御神水講」の名をみることができ、鉱泉の発見が穴守稲荷に新たな御神水信仰をもたらし、講社の発展にも寄与した。 その灼然なる霊験を求める者は全国に広がり、上州草津温泉や磐梯熱海温泉等の著名な温泉地にも穴守稲荷の分社が創建されたのもこの頃である。
その後、昭和20年(1945)の敗戦に伴い、神社をはじめ鉱泉宿街は瞬く間に埋め立てられ羽田空港の礎となり、穴守の御神水はひとたび途絶える事になった。しかし、信仰心は湧く水の如く涸れる事無く、草津や熱海の各分社は地元温泉旅館主たちの篤い崇敬はもちろん、湯治者や観光客の信仰も集め続けた。
令和に入った現在でも穴守稲荷の湧水祈願によって羽田空港に天然温泉が湧き出したニュースは記憶に新しく、羽田を訪れる国内外の旅人の疲れを癒している。
そして令和の大改修を竣えた翌春3年(2021)4月、篤信家の手により境内神苑に御井戸が鑿られた。復び羽田穴守の地下水が湧き出でた事で、80年の時を越えて穴守の御神水が復活する事になった。
併せて戦前の氏子宅で用いられていた大水瓷が奉納され、水琴窟「東国一」が奉製された。この水琴窟には御井戸で汲み上げられた御神水が注がれており、その悦き音色は参拝者の心を浄めている。
鳥居前町の繁昌についての奉納歌
鎮りませるくしみたま、奇きみいづの祐けにや、
ななとせ八年前のころ、良水得むとゆくりなく、
一の井戸を掘りければ、礦泉たちまち湧出でて、
たほく病者を癒しけり、さればその後たれ彼も、
之に倣ひて井を掘りて、たか楼建てて客を待つ、
社前につらなる種々の、店もひとしく客を呼ぶ、
よりて益々たよりよく、名には背かぬいな妻の、
くるまも疾く通ふなり、嗚呼ありがたき穴守の、
神の御稜威をかかぶるは、いく千万のひとならむ、
かくいやちこの神御霊、かなめの島のあふぎ浦、
みすゑ広くぞ栄ゆべき、
みやしろの為に凡ての営業を いとなむ人やいかに思ふらむ
詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より
首都東京の空の玄関口である東京国際空港(羽田空港)は、かつては羽田穴守町と呼ばれ、穴守稲荷神社の参詣を中心とした、京浜間の一大観光地として栄えていた。
大正6年(西暦1917年)、当時の神社総代で門前鉱泉宿『要館』の当主 石関倉吉氏の援助の下、早くから航空発展の重要性に目をつけた二人の青年、玉井清太郎と相羽有らによって、羽田穴守の地に「日本飛行学校」と「日本飛行機製作所」が創立された。
当時、飛行学校の練習生が初めてソロ(単独飛行)する前夜、ひそかに油揚げを献じたところ、上首尾だったので御礼参りをしたエピソードも残っており、この頃から既に航空安全の信仰を得ていた事がうかがえる。
これが羽田における航空史の始まりであり、また穴守稲荷神社と航空界との御神縁の始まりである。
やがて、門前町羽田は航空の適地としても注目される様になり、昭和6年(1931)には神社の北側に官営の「東京飛行場」が開港、多くの旅客機も飛び交うようになった。この東京飛行場の開港日(8月25日)をもって、現在の空港の開港記念日としている。
しかし昭和20年の敗戦を臨み、神社は連合国軍による東京飛行場接収により、社殿はもちろん、石灯籠や数多の狐像なども、すべて空港の文字通りの『礎』として滑走路の下に埋め立てられてしまった。大禍の去った跡に残ったのは、ただ一基の大鳥居だけであった。
だが、このような耐え難き艱難に見舞われても、人々の信仰は失われる事はなかった。穴守の元住民をはじめ、全国の崇敬者熱意の奉仕により、空港と一衣帯水の新境内を得て、社殿や神楽殿といった設備だけではなく、失われた祭事も徐々に復興していった。
昭和30年(1955)5月17日には、東京国際空港旧ターミナルビルが穴守稲荷の本殿跡に建設され、その屋上には空の安全を祈念し、「穴守稲荷空港分社」を祀る事になった。以来、昭和38年(1963)創建の「羽田航空神社」と連れ添って、空港の安全と繁栄を見行わした。
平成の御代になり空港沖合展開事業が始まると、旧ターミナルビルが撤去されることになり、「羽田航空神社」は第一ターミナルビルへと遷座、「空港分社」は穴守稲荷本社に合祀されたが、いずれの御社も穴守稲荷の神職により今日に至るまで祭祀が続けられている。
そして現在においても、羽田の地を災害から守る『堤防の鎮守』という草創の故実より、空港工事の安全祈願はもとより、官公庁・航空業界の要職者から個人旅行者に至るまで、航空安全のご加護を得るべく日夜参詣は絶えない。
今も境内からは、南風の午後には南西の空へ飛び立つ飛行機を境内より目近に見る事も出来る。近くには空港関係企業や訓練施設、宿舎も多く、畏敬と親しみを持って多くの尊崇を集めている。
再国際化を果たした近年では、国内だけに留まらず、嘗て干戈を交えた米国をはじめ遠く海外のエアライン各社からも崇敬を得て、御縁日には色とりどりの奉納幟が境内に翻えりその神徳を称えている。